■RED AND BLACK■レ・ミゼラブル2015日記 -34ページ目

ときどき書き直しをしてます

「レ・ミゼラブル」が好きだという気持ちをそのままにするのではなく、

ちゃんと表現できるようになりたいと思って始めたこのブログですが、

最近は思いがけずコメントをいただいたり、アクセス数が伸びるなど、

反響が増えてきました。ありがとうございます。


書くのはたいてい夜中なので、まぶたが落ちかけているときもあり、

時々とんでもない文章になっているときがあります。

せっかく読んで下さっている方がいるというのに、申し訳ありません。


昨日は「ブリジョン役」と書くところを、

なぜかなんと「ベトナム役」と書いていました(もう修正しました)。

これは頭の中で

「ブリジョン」

→「そういえばブリジョン役の岸さんは、ミス・サイゴンに出てたな」

→「ベトナム」

と、考えが飛躍してしまった結果と思われます。恥ずかしい。


そんなこともあり、書いた記事はたいてい翌日にこっそり推敲しています。

未熟者ですが、とりあえず5月29日まで毎日更新

&少しでも読みやすい文章が書けるよう、精進したいと思います。



レミゼ帰りの新幹線で

5月はじめの連休はレミゼ断ちをしている。

といっても、観に行っていないだけで、

パンフを眺めては、舞台に想いをはせる今日この頃。


パンフで思い出した。

あれは2003年の秋、公演を見た帰りに新幹線に乗ったときのこと。

3人がけの席の通路側に座り、パンフレットをじーっと読みふけっていた。

しばらくして列車がちょっと揺れたとき、

テーブルに置いていたコンプリート版CDの歌詞カードが

隣席のおばさまのひざ元に落ちてしまった。


「すみません」と謝って、拾ってもらった歌詞カードを受け取ろうとしたら、

おばさまがなぜかニコニコして話し掛けてきた。

「レ.・ミゼラブル観てきたんですか? 今日は内野さんでした?」

どうやら、その人も舞台好きらしく、今日は母娘で宝塚を観た帰りとのこと。

娘に目をやると、同じように『歌劇』を一心不乱に読んでいた。


「いえ、内野さんではなく、同じジャベール役の今さんの楽日だったんです」

と応えると

「そうですか。チケット取るの大変だったでしょう?」

「はい、そうですね(←正直)」

などと、会話が弾んで、ちょっとうれしい気持ちになった。


ひとり観劇のときは、感想も自分ひとりで抱え込んで満足してしまうことが多いけど、

やっぱりだれかと分かちあうのはいいな。


そんなことを思いながら楽しんだ、偶然のひとときだった。


気になる小ネタ大会

1 司教館で盗みを働いて逃げ、警官につかまって

また司教に救われるシーンで。

司教が「何よりのものを差し上げたのに」と言うと

群集は,皆おどろきでわいわい取り巻いているのだが、

一人のやじうまが「母ちゃん!(あれ見て!燭台あげちゃうよ!)」と

叫んでいたときがあった。

母ちゃん… 空耳だろうか?


2 「ラム酒だよ!」の一連のせりふ、

これまでは「ラム酒ちょうだい!」というオーダーに聞こえていたのだけど、

4月末のとある回では、次のように聞こえた。


プルベール役の客 「(テナルディエ印って言ったって、どうせ)ラム酒だよ!」

ブリジョン役の客「「こっちも(ラム酒)だ! (まったく、なってねえなあ~)」


印象が全然違う。


うーん、小さいことが気になる。

若者の世界・大人の世界

4月は岸・小鈴の両アンジョルラスが登場したことで、

学生のシーンだけでなく、物語そのものを、

これまでにない視点で観ることができるようになった。


二人には、学生たちのボルテージをぐいぐい引き上げる力があった。

「さあみんな、街へ出て行こう!」という呼びかけに反応する

目の輝きを見れば、それがわかる。

歌ったり動いたりしないシーンでも、

リーダーの下で心を一つにしていることが立ち姿から伝わってきた。


そのおかげで、バルジャンがジャベールを逃がすシーンの見方が変わった。


「最初の戦い」のあと、アンジョルラスはジャベールの処分をバルジャンに任せ、

見張りのため外を見ている。学生たちも全員後ろ向きで、だれも動かない。

その間に、バルジャンは学生達にわからないよう、人質ジャベールを解放してやる。


いままで、この場面ではおじさん二人(バル&ジャベ)の動きだけを見ていた。

見張りをする学生たちは物語の進行に関係ない存在だった。

ライトがあたっているのはバルジャベだけで、

ここでは学生たちは暗い影にしかみえない。


でも岸&小鈴アンジョが登場してからは、

「若者の革命物語」と「長年対立するおじさんのドラマ」という2つの話が、

このシーンで同時進行しているということが、はっきり感じ取れるようになった。


これは、学生たちの熱い思いを目一杯引き出してくれた両アンジョのおかげだろう。

光のあたらないところからも革命への熱気が伝わってきたことで、

学生たちのような信頼関係とは対極にあるバルジャンとジャベールの

やりとりがより際立って見えるようになった。

「全員が主人公」というこの物語の重層構造が、見えてきたのである。

地味かもしれないけど、自分にとってはとても新鮮な発見だ。


若者の世界が緊迫感を増していくのと同じ場所、同じときに、

大の男二人の運命を分ける出来事が、ひっそりと進行している。

一つの舞台に、いろんな人生がある。




目で交わしていた約束

4月30日の公演は、昼夜とも、新たに感じたことがたくさんあるのだけど、

今夜だけではここに書ききれない。

まずは、これまで記したことのないシーンのことから。

 

夜公演のエピローグ、別所バルジャンの最期の言葉のとき、

「私は、父じゃ…な…い…」と嗚咽がまじったように聞こえたので

よく顔を見たら、本当に涙が伝っていた。

そして力尽きる直前、泣いてすがりつくコゼットの頭越しに、

マリウスと見つめあい、目で会話をしていた。

「頼むよ」と訴えるバルジャンに、しっかりうなずいて応えた藤岡マリウス。

コゼットを通じて、愛情というものが世代から世代へと、受け継がれていく。

それが目に見えたとき、理屈というより心が反応して、こちらも涙が出た。


 この演技は、今まで見たことがなかったけど、以前からあったものなのかな。

それとも藤岡マリウスと別所バルジャンが二人で考えたプランなのだろうか。

 初舞台の藤岡マリウスは、ここ数週間、新緑がぐんぐん水を吸収して

大きくなるように、目覚しい成長を遂げてきた。

若いって、限界を知らないことを言うんだなあ…。

 

バルジャンの苦労をいたわる、井料ファンティーヌの歌声。

適切な表現かどうか分からないけど、

「こういう魂が見守ってくれるのなら、死も怖くないかもしれない」とすら思えた。

もちろん、悔いのない生き方をまっとうしていればこその話である。

天国からマリウスとコゼットを見守る、エポニーヌや学生たちのようにね。

 

そういう感情が、最後に「民衆の歌」が聞こえてきたときに、うわっと押し寄せてきた。

感動しながら、自分への息苦しさも味わった。

そうだったのか…

下のほうにある記事で

「アンジョの戦い方が変わった?」と書いたけど、

なるほど、今日4/29の岸アンジョの動きで、

戦いの最後に銃を持たず旗だけ振ってる理由が見えた。

(いまさらだけど)


マリウスが撃たれて倒れたのを見て

我を忘れたように駆け寄るアンジョルラス。

バリケードから飛び降りて地上に着地したとき、

持っていた銃を放り投げてしまった。


マリウスの息を確かめると

止めようとするグランテールに微笑み、また頂上に戻っていく。

そしてためらうことなく赤旗を手に取り、

政府軍に向かって、何かを伝えるように大きく振りかざす。


ガブローシュの死に、虚脱感を隠せなかったアンジョルラス。

バリケードのなかで揺ぎない精神的支柱だったはずのリーダーが

初めて、がっくりうなだれていた。観ているほうがうろたえそうになった。


つづいてマリウスも撃たれたとき、

アンジョには、もしかして、

自分の死に至る道がはっきりと見えたのかもしれない。

最期は銃よりも、赤旗にとともにありたいと思ったのだろう。

だから放り投げた銃を拾い上げようともせず、バリケードを一目散に駆け上がったのだ。


心にしみるツボ

最近の細かいお気に入りシーンについて


●井料ファンティーヌの「夢破れて」歌い出し


後ろ向きで、光の降る方向に手を伸ばす姿が、

思い出にすがりつく彼女のはかなさを感じさせる。

やっぱり自分で考えてそう演技しているのかな。すごい。


●今ジャベールの「自殺」セーヌ川の橋にて


橋にたどりついて「……どうして許せよう…」と歌いだすところ、

最初後ろを向いていて、ためらうようにゆっくりこちらを向く。

間をためてから歌うので、ジャベールがいま混乱の中で迷っているのだ

ということが見た目だけでダイレクトに伝わってくる。

前も書いたけれど、細かく心情が伝わってくる今ジャベールの自殺、

いまのところ一押しだ。


●山口バルジャンの「彼を帰して」とエピローグ

 

「彼を帰して」で思わず息をのんでしまうのは、

それが「歌」を超えて「祈り」として聞こえてくるからだと思う。

いま思ったのだけど、その祈りが神様に通じたおかげで

マリウスは生き残ったんだな… 

祈りというか、念力というか。

そしてエピローグ、死にかけた老人の声で、か細く歌っているのに、

コゼットが駆けつけて来たとわかると、急に若い大きな声になる。

「ああコゼット! 愛しい子よ、神は許したもうたのか?」と驚くさまは

まるで生き返ったかのよう。

というか、生き返ったんだな。この別れの一瞬のために。

大切な人に命をあたえるコゼットは、生きる力の象徴なんだな。

もし、レミゼのイベントを企画できるなら

眠くてもうろうとしながら書いたらぐちゃぐちゃな文章だった…

少し推敲。

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もし、レミゼファンのためのイベントを東宝に提案できるなら…


●岩谷時子先生に聞く「レ・ミゼラブル歌詞に込めた想い」


無理かと思いつつも、あったらいいなと思うイベントの第1候補。

「レミゼの魅力は音楽」とは良く聞くけれど、

実のところは「音楽と歌詞」じゃないかと思う。

いまどき聞かれない繊細な日本語表現に、

役者の魂が吹き込まれ、

美しい旋律に乗って耳に届く。


この3つがうまく調和している作品は、そう多くないだろう。

レ・ミゼラブル日本版の歌詞はどのように生まれ、進化してきたのか、

とても興味がある。


ご本人のトークが無理でも、この歌詞の訳者として、

何か語っている文献がないだろうか…


●グランテールの集い


この人のおかげで、今まで何リットルの涙を劇場に落としてきたことか。

「尊敬するアンジョルラスと戦いたい、でも誰も殺したくない」。

葛藤に苦しむ難しい役を、どうやって作りこんでいるのだろう。

ぜひ役者さんに聞いてみたい。

アンサンブル単独でのイベントが無理なら、

「(アンジョを除く一般の)学生たちの集い」でもいい!

うん、それもいいな。


一度、「グランテールだけを集中的に観る日」というのを

やってみたいと思うのだけど、いつも挫折してしまう。

ほかの登場人物にも細かい見所がたくさんあるので

つい目移りしてしまうからだ。

せりふがないシーンでのグランテールの演技は、

なぜか心に残るものが多い。なぜか…??


八艘飛び!の上條コンブフェール

コンブフェール役の上條コウ氏のことを、これまではひそかに

「ミスター工場長」と呼んでいた。

ファンティーヌをクビにする怖い工場長役が板についていて、

「このっ スベタ! 出てけぇぇえええ!」という迫力ある追い出し声を

聞くのが、楽しみだったからだ。


ところが、 岸&小鈴アンジョルラスと組む最近の公演を観て、

本役コンブフェールの存在感が日ごと強くなっていることに気づいた。

2003年公演・今年の3月公演までは、

「上手な役者さん」という認識にとどまっていたのだが、
4月に観にいったら、いつの間にか

「熱血コンブフェール」が誕生していたのである。



下に何回か書いているけど、汗が飛んでくるかと思うほど熱いのが

ABCカフェのシーンだ。

ラマルク将軍の訃報に肩を落としている学生たちに、アンジョルラスが

「葬儀の日 その名称えて 鬨の声 空に届こう」と呼び掛けると、

コンブフェールが一番先に、ハッ!と顔を上げる。

続いて「彼の死に燃える炎 民衆が立ち上がるとき」という声が聞こえると

身を乗り出してアンジョを指差し「そうだ! その通りだ!」と叫ぶ。

(マイクは入っていないけど、ちゃんと聞こえた)、

「今こそ 喜びの声で迎えよう! さあみんな、街へ出て行こう!」では

学生たちの肩に次々と手をかけ、気持ちを奮い立たせている。


その表情の、希望に満ちて瑞々しいこと。

ねちっこくファンティーヌをいじめていた工場長と同じ役者とは思えない…。


それでまた上條コンブフェールに注目して観た、岸アンジョルラスの回。

コンブがもうひとりの学生とエポニーヌの亡骸を外に運んで、

またバリケードに戻ってくる場面のことだ。

「軍服の男、何の用だ」という見張りの声に、

それまで沈痛な顔をしていた上條コンブは、さっと表情を引き締める。

そして大きく跳ぶように走って舞台を一気に横切ると、

姿を現したバルジャンの真下にすばやくスタンバイした。

あの勢い、義経の八艘飛びもびっくりである。
リーダーのためなら、すぐに駆けつけたい、何でもしたい、という忠誠心が

はちきれんばかりだ。



「子どもの遊び」とは思えないわけ

ここのところ、アンジョルラスや学生たちの戦いざまを称賛しながら、

実は心に引っかかっていたことがある。


「革命を起こす学生」の芝居に涙を流す自分は、

現実社会のあちこちに見る学生運動などにも、同じような感情を抱くかな… と。


言い換えれば、

「しょせん芝居だから」安心して泣いたという、浅いセンチメンタリズムなのか、

それとも、涙の出所はもっと別のところにあるのか、という自問だ。


今日、あるジャーナリストの文章を読んで、ちょっと答えが見えてきた。

自分の体験から生まれた、自分の言葉で戦う人の話には、

少なくとも耳を傾ける価値がある。

どんな言葉で語るのかを聞けば、そこに込められた想いが分かるからだ。

それが人間として真っ当な話なのかどうかも、見えてくるだろう。


反対に、特定の個人や団体から借りてきたイデオロギーでしか

語れない運動は、どこかうさんくさい。


問題は、芝居か現実かではない。

信念とか人間性に、心を寄せたくなるかどうかだ。


アンジョルラス、マリウス、グランテール…

この舞台の学生たちは皆、同じ「民衆の歌」を歌って団結するけれど、

革命に対する想いはそれぞれに違う。

アンジョルラスは原作者に「共和国が彼の恋人」と言わしめるほど、

未来のため命を賭す覚悟で革命に臨んでいる。

マリウスは恋を取るか友情を取るか迷って、仲間との戦いを選んだものの、

動機の半分はコゼットが旅立っていなくなることへのやけっぱちな感情だ。

グランテールはアンジョルラスを心底尊敬しながらも、死への疑問をぬぐいきれない。

ほかの学生たちにも一人ひとり、バリケードにたどりつくまでの生々しい物語がある。


だから、青臭い感情がいちいち心に響くのだ。

ジャベールのように「子どもの遊び」とドライに片付ける気になれない理由は、

そういうことだ。